Homeザールブリュッケンでの日記 > オペラ「オテロ」

2010年5月17日 オペラ「オテロ」

開演前の劇場トシユキ・カミオカ(上岡敏之氏)がザールラント州立劇場の音楽総監督に就任して最初のシーズン、彼はシンフォニーコンサートでこれまで何度か指揮を振っているが、オペラは昨年12月プレミエのフンパーディンク「ヘンゼルとグレーテル」だけなので、音楽総監督としての印象がまだまだ薄いといった感がある。しかしその彼が指揮を振るヴェルディ(ジュゼッペ・ヴェルディ、1813-1901)「オテロ」(1887年ミラノ初演)は大きな作品だけにシーズン当初から期待が大きかった。

「オテロ」(イタリア語上演・ドイツ語字幕)のプレミエ公演は2010年5月15日(土)。何日も前にチケット売り場を訪れたが既に完売となっていた。その時期に完売となる公演は久しぶりのような気がする。それだけ期待が大きいと言うことだろう。窓口の人が言うには、数日前では完売だが予約だけして期日までに取りに来ない人のチケットが出ることもあるので、もう一度窓口に来ればチケットがあるかも知れないという。結果的に一枚手に入れることが出来たが本当に運が良かったと言えるかも知れない。プレミエ公演当日、窓口では全ての座席カテゴリーが「売り切れ」表示になっていた。それでも窓口前にはチケットを求めて並んでいる人がいるという状況だった。

この日は最低気温が6度、最高気温11度と少し肌寒く、また曇り空で何処か暗い一日だった。しかし劇場を訪れると、建物内は開演前にもかかわらずものすごい熱気がある。シャンパンやビールを飲んでいる人も多い。そして何より正装率がものすごく高い。久しぶりのオペラ公演といった印象だ。というのは、最近は演出的に難があった「フィガロの結婚」(モーツァルト)、ドイツ初演の「ドクター・アトミック」(ジョン・アダムズ)、世界舞台初演「シャコンタラ」(シューベルト)と話題性はあるが、オペラらしいオペラが続いていなかった。途中に「ラ・トラヴィアータ」(ヴェルディ)があったが、それはコンサート形式だったので、オペラという雰囲気ではなかった。演目的にも内容的にも久しぶりにオペラといった雰囲気があり、同時に指揮者が音楽総監督カミオカとなれば大きな期待が感じられる。開演前の劇場内にはその期待が満ちあふれているといった雰囲気だろうか。正装している人が多いのもその現れだろう。

19時20分頃、自分の座席を探して席に着いたが、ホール内は天井シャンデリアの灯りが弱く点いているだけで薄暗い空間になっている。少しかがまないと座席番号が見えないほどだ。満員の観客でどことなく劇場内には緊張感があった。開演の19時半、薄暗かったホールの照明は更に暗くなり同時にオーケストラピットの指揮者の場所にスポットライトが当てられた。指揮者がこれから出てくるのかと思った瞬間、その場所に指揮棒が見え、演奏が始まった。どうやら最初から指揮者はそこにいた模様。普通は指揮者が姿を見せた時に観客から拍手が出て、指揮棒を構えてから音楽が始まる。言ってみれば、その時に観客も気持ちの切り替えが出来る。しかし今回の「オテロ」のように突然舞台が始まれば、気持ちを切り替えるのは難しい。しかし大きく迫力ある音楽で一瞬にして舞台に引き込まれたように感じられた。

劇場内にあった配役表の一部指揮者が開演前からオーケストラピットにいたのと同じように、舞台も緞帳が開いたままで開演前から舞台セットが見えている。暗い舞台上には、その舞台のサイズにぴったり合うような大きく透明なケースが置かれている。その透明のプラスチックケースの中でオペラが上演されるといった感じだ。壁や天井は透明のプラスチックで出来ており、横から見ると三角形というほどではないが奥の方は高さが随分と低くなっている。そしてその中には砂がまかれている。内容上の舞台はキプロスの港となっているが、それを表すように砂浜となっている。天井や壁の透明な板が波打っているように見え、まるで水面を見ているようでもある。若干照明が変わるだけで舞台セットは最初から最後まで砂浜という設定だった。また特に大きな仕掛けもなく非常にシンプルに作られた舞台となっている。一見しただけでは時代や物語の背景は分からない。

一般的にこういったシンプルな舞台は評価が分かれるかも知れない。というのは一見しただけでは話や展開が分かりづらく、オペラによっては無味乾燥な舞台と写ってしまう。同時に歌手陣の演技力なども求められるだろう。しかし逆に何もない分、様々な想像力が働く可能性があり、歌手の演技力などがより印象的になることもある。最近は奇を衒ったような解釈での演出作品も多く、演出がオペラを壊していると思われることもあるが、今回の「オテロ」のようなシンプルな作品は派手さはないが、オペラの世界観を壊さず、内面的な描写に長けていると言える。結果的に今回の演出はシンプルだが大成功と言えるものだろう。それを表すようにカーテンコールで演出家が舞台上に出てきたときにブラヴォーが飛び、ブーイングは全くなかった。

演出家はオリヴィエ・タンボジ。これまでドイツ国内だけでなくオーストリアやフランス、スイス、アメリカなどで多くの作品を手がけている。彼はオペラの演出を音楽アカデミーで学んだだけでなく、大学で神学と宗教学をも学んでいるが、そういった面も演出には役立っているのだろう。特に今回の「オテロ」のような作品では、如何に人の内面を描き出すか、それが重要な点に置かれているように感じられる。ただ舞台衣装が現代の日常的なものだったのが少し残念に思えた。男性歌手陣は黒系で、一般市民を演じる合唱も普段着、日常的なものだったので、それが何故か感情移入しづらいものになっていたようにも思われる。

ポスターそしてこの作品では主役のオテロやデズデーモナだけではなく、イアーゴが大きな役割を果たしている。脇から覗く場面などを見ていると、彼の中にある人間的な部分がクローズアップされているように感じられる。そのイアーゴを歌ったオラフ・シグルダーソンは歌や演技だけでなくその存在感も大きく、舞台に良い緊張感を作り出しこの作品の中心となっていた。

オテロを歌ったメキシコ人ラファエル・ロジャスは主にアメリカで歌っており、1999年以降その活動の中心をヨーロッパに変えたとある。これまで幾つかの劇場で様々な大きな役を歌っているがオテロは初めてという。またデズデーモナを歌ったロシア人スヴェトラーナ・イグナトヴィッチは現在スイス・バーゼルの専属歌手として歌っているが、彼女もデズデーモナを歌うのは今回が初めてとのこと。しかし彼女のデズデーモナは中音域から高音まで綺麗に出ており、今後別の劇場でもデズデーモナを歌うかも知れない。そういえば彼女がアリアを歌ったあとにブラヴォーが出たが、そのブラヴォーを言った人も叫んだと言うより思わず口から出たと言った雰囲気があった。音が小さくなり静寂の中に、観客の一人が呟いてしまったと言った感じだろうか。一呼吸あってそれに続くように幾つかのブラヴォーが出たのが印象的だった。

主役の3人にはカーテンコールでも大きな拍手やブラヴォーが幾つも飛び、客席からは花束も投げられた。カーテンコールでの彼らの少しはしゃいだ様子を見ると、プレミエ公演を無事終えられた安堵感だけでなく、歌い上げた満足感なども伺える。

そういえばカーテンコールで最初に舞台に姿を見せたのは合唱だったが、彼らに対しても大きなブラヴォーが飛んでいた。色々な人から聞いたところによるとエキストラの合唱はこれまでと違って、オーディションを一からやり直したということ。同時に最大人数を決め、選別した人だけで構成されているという。そういったこともあってか合唱が本当に上手くバランス良く聞こえている。特に各パートのかけあいも綺麗で舞台に華ある雰囲気をつくっていた。それだけでなく大合唱ではかなりの迫力があり、間違いなくこの公演の成功要因の一つだろう。

そしてオーケストラ。カーテンコールで指揮者カミオカが舞台に姿を見せたとき、更に大きな拍手とブラヴォーが出ただけでなく、床を蹴っている人や黄色い声を挙げている人もいることから分かるように、今回の公演では非常に印象的だった。カミオカが舞台に出て来たとき、彼自身も拍手をしていたが、拍手と言うよりは大きく手を叩いているといった感じで、合唱や歌手陣、オーケストラを端から端まで讃えていた。公演後色々な人と話したが本当にオケの音が良く、以前よりも随分と表現の幅が拡がったという。体に響くような大きな音から、耳を澄まさないと聞こえないような小さな音まで、そして歯切れ良く、良い意味での緊張感ある演奏だった。そして何より音が良い。温かみのある木の音がしている。時にはしなやかで時には切れ味鋭く、まるで音が感情を持って生きているようだった。それらの音が舞台上の砂上の人間味あるドラマを盛り上げている。

この「オテロ」のプレミエ公演は、最近、自分が訪れた公演では最も緊張感と熱気があり、完成度の高い公演だった。客席の中からも咳がほとんど聞こえてこない。観客も舞台上のドラマに集中している。1幕終了後で照明が消えたときにブラヴォーが出ただけでなく、休憩前の2幕の最後にはホールの照明が点いて明るくなっているにもかかわらずブラヴォーを叫び、拍手をしている人がいる。カーテンコール時も男性だけでなく女性もブラヴォーを叫んでいたように、本当に盛り上がる公演だった。

パンフレットとチケット公演後、劇場内の色々なところで良かったという声が聞かれた。ホール出口で全く知らない男性と目があったが、彼は直ぐにすごく良かったと口にしていた。自分も会う人会う人に「良かった」と話していた。まるでそれが挨拶になったかのようだった。みんなでその興奮や感動を共有したいという気持ちがあったのだろう。久しぶりにオペラらしいオペラを観たといった感じで、観客には興奮に似たものが感じられた。

公演後には劇場内でプレミエパーティーが催された。これは誰でも参加できるが、この日はいつも以上に人がいたように思う。場所を移動するのも容易ではなかった。パーティーでは劇場総支配人ダクマー・シュリンクマンが挨拶をして、指揮者や演出家、出演者などを皆に紹介していく。そこでも大きな拍手や歓声が聞こえる。公演の盛り上がりがそのままパーティーに持ち込まれたようだった。私自身は指揮者に一言「良かった」と告げることが出来、それで満足したので、それほど長居はしなかった。いずれにしても久しぶりに興奮を覚えた公演だった。次回の公演は数日後。そこでまた別の発見があるかも知れない。そして一部配役が替わるがそれも含めて楽しみである。

この「オテロ」を見ていると、そこから人が持つ愛情や嫉妬、そして繊細さや儚さなどがより強く感じられる。というのは、この演出ではムーア人のオテロを歌う歌手の顔に太い筆でさっと黒を描いただけで、また男性陣はみな黒系の服装となっているので、それぞれの境遇や身分、階級、民族など分かりづらくなっている。人間の持つ苦しみや悲しみ、切なさを前面に出すために、あえて分かりづらくなっているのかも知れない。特に砂上の舞台を意識すれば、演出家がオペラを通して表現したかったことは、単に物語を追うのではなくて、我々一人一人の中にある情熱的な面と簡単に崩れてしまいそうになる弱さなど人間らしい一面なのかも知れない。だからこそ時代や物語の背景も分かりづらいシンプルな演出で衣装も日常的なものだったと言える。物語を追い感情移入させるのではなく、日常の中にあるものを気付かせる。その点でこの「オテロ」は観客との距離が近いようにも思われた。

追記(5月19日)

2日目の公演は水曜日にもかかわらず、観客の数は多かった。完売ではなかったがそれなりに埋まっているという印象。観客の中にも熱気があると感じられたが、やはりプレミエ公演とは違っており、プレミエ公演が如何に独特の雰囲気があったか分かる。2日目のデズデーモナはシュテファニー・クラーネンフェルトが歌った。プレミエを歌ったイグナトヴィッチとは声や雰囲気、演じ方も違っており、シュテファニーはシュテファニーなりのデズデモーナを演じていた。公演後のカーテンコールではオテロやイヤーゴと共に大きな拍手とブラヴォーを受けていた。しかしこの日、最もブラヴォーが多かったのは明らかにオーケストラだった。指揮者カミオカが舞台に姿を見せると、拍手も大きくなり早くなった。立ち上がって拍手をしている人もいれば床を蹴っている人もいる。そういえば指揮者カミオカはプレミエ公演時は燕尾服だったが、この日はジャケットだった。それにしても公演後、ホールを出る観客の表情は明るい。良いものを観たとその表情は言っているように見える。おそらく自分も同じ表情をしていただろう。

さらに追記(5月22日)

3日目の公演は土曜日でほぼ完売に近い雰囲気だった。開演前の劇場も華やかな空気がある。この日は久しぶりの快晴の日だった。ここ何週間か曇り空の日が続いていたので、こんなに世界が明るいのかと感じられるほど久しぶりの青空といった印象だった。それだけで人の気持ちも明るく楽しくなるようで、開演前の観客は騒がしかった。それはこの日の歌手陣にも言えたことで、前半から飛ばしているようにも見える。この日の配役はプレミエ公演と同じだった。そういえばこの日、デズデーモナのアリアのあとには拍手もブラヴォーも出なかったが、それは指揮者カミオカがずっと片手を大きく挙げていたためかもしれない。初日と2日目は自分の座席から見えなかったので分からないが、この日はアリアの後もずっと片手を挙げて曲が続いていることを示していたためか、拍手もなく、途切れず音楽が進んでいった。歌が悪かったのではない。カーテンコールでは彼女に対して大きなブラヴォーが幾つも飛んでいた。そういえばカーテンコールで指揮者カミオカが舞台に姿を見せたとき、観客の何人かが一斉に立ち上がって拍手をし始めた。その光景を目にした私の横に座っていた見知らぬ女性二人も「カミオカは素晴らしい、オーケストラが上手い」と何度も言っていた。こういった盛り上がった公演を聞くと、改めて生で聴く音楽の楽しさ、素晴らしさが感じられる。

もう一度追記(5月30日)

4日目の公演も土曜日で観客も多い。上階席の端の方に空席があるが一見すると人で埋まっていると言った印象だ。この日の指揮者は同劇場第一常任指揮者のアンドレアス・ヴォルフ。これまで指揮を振っていたカミオカは翌日午前中にあるシンフォニーコンサートで指揮を振るからだろう。カミオカとヴォルフの音の違い、これも面白かった。空間を支配する音の広さが違っている。この日の演奏はカミオカが来る前のオーケストラの音といった印象があり、人の言葉を借りれば、ザールラント州立オーケストラが持っている伝統的な音といったところだろうか。この日の歌手陣はデズデーモナがクラーネンフェルトの第二キャストだったが、緊張感ある演技が客席にも伝わってきて、見応えある舞台だった。公演後のカーテンコールでもこれまでと同様盛り上がり、指揮者も何度も呼ばれていた。今後も指揮者がカミオカではない公演もあるだろう。色々な演奏での「オテロ」、楽しみである。

また追記(6月3日)

休憩中2010年の6月3日(木)は聖体節でカトリックの州は祝日である(ザールラント州は祝日)。久しぶりに青空が拡がる天候で、劇場前の雰囲気も華やかなものがあった。「オテロ」5日目公演の指揮は音楽総監督カミオカ。祝日にもかかわらず観客の入りは結構入っているという印象だった。何度も同じ演目を観ていると、これまで気が付かなかったことを発見できるだけでなく、歌手の方にも慣れてきたためかアドリブ的な動きが入ってきて新鮮味があった。しかしオペラは生き物という言葉があるように、指揮者や歌手陣が同じでも、同じ演奏にならないのが面白い(配役は第二キャストだった)。この日の演奏、最弱音が今までで最も小さく、聞こえているか聞こえていないかといった状態で、そして時々だが一拍が長く感じられ、ゆっくりと演奏しているところが印象的だった。この日のカーテンコールでもいつもと同じように多くのブラヴォーが飛んでいたが、指揮者カミオカが舞台に姿を見せると観客の拍手は揃った手拍子になった。カミオカも全力を出し切ったのか舞台の上で少しバランスを崩しているような、しかし楽しそうに拍手をしている。観客が一体となるこの手拍子の拍手は、やはり独特の雰囲気がある(写真は休憩時、午後9時頃の劇場)。

最後の追記(7月5日)

7月2日(金)が「オテロ」の最終公演だった。指揮はカミオカ。この日も完売で非常に盛り上がる公演だった。公演後のカーテンコールの時には歌手陣だけでなくオーケストラも全員舞台に上がっている。そこでの拍手は客席が一体となった手拍子のような拍手となり、舞台上では出演者が何度も頭を下げていた。今シーズンの「オテロ」、指揮者がカミオカだけでなくヴォルフやヘルマンということがあったが、それぞれの「オテロ」があり、楽しむことが出来た。演出的には派手さはないものの、オペラの世界を壊していないものだったので、多くの人が好意的に感じているようだった。集客的にも公演的にも成功した「オテロ」、こういった作品が多くなれば、この劇場は更に上に行けるだろう。


Otello

Oper von Giuseppe Verdi
Musikalische Leitung: Toshiyuki Kamioka
Inszenierung: Olivier Tambosi
Bühnenbild: Bengt Gomér
Kostüme: Inge Medert
Choreinstudierung: Jaume Miranda

Otello: Rafael Rojas
Iago: Olafur Sigurdarson
Cassio: Jevgenij Taruntsov
Rodrigo: Rupprecht Braun
Lodovico: Hiroshi Matsui
Montano: Sung-Woo Kim
Ein Herold: Johannes Bisenius / Jeong Han Lee
Desdemona: Svetlana Ignatovich / Stefanie Krahnenfeld
Emilia: Judith Braun / Maria Pawlus

Opernchor, Extrachor und Kinderchor des Saatländischen Staatstheaters


▲ページの最初に戻る