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2010年3月16日 「つまずきの石」

「つまずきの石」ドイツ各地に「つまずきの石 Stolperstein」というモニュメントがある。これは石畳に埋められたモニュメントで、ナチスによって迫害を受けた人に関する碑である。きっかけは1992年12月16日、ドイツ人芸術家のグンター・デムニック(1947-)がケルンの市庁舎前に文字の書かれたプレートを埋め込んだことに始まる。その後、彼はドイツ全土を回るようになり犠牲者の碑を各地に残した。1997年7月19日にはオーストリア・ザルツブルク近郊ザンクト・ゲオルゲンにも残し、国外にもその活動は拡がっている。

2010年3月までにドイツ国内543以上の街で23,000個以上の石が埋められ、国外ではオランダ、ベルギー、オーストリア、ポーランド、チェコ、ウクライナ、ハンガリーの39都市にも埋められ、今年はノルウェーやデンマークでも計画されている。その「つまずきの石」が2010年3月10(水)にザールブリュッケンにも埋められた。

10x10センチの金色の石が石畳に埋め込まれたが、そこには1942年6月3日に54歳で亡くなったパウラ・レープとその母エミリエ・カイザー(69歳)の名前がある。彼らは同日、ナチスによって強制移送され、その日の内に殺害された。その彼らが住んでいた家の前に芸術家デムニックの手でその石が埋め込まれた。

この活動、現在は合法的になされているが、以前は非合法のものもあったという。そして犠牲者の遺族や関係者の中には、この地面に埋めるモニュメントに反対している人も少なくないという。というのは、名前が書かれた碑は道路に埋められているので、通行人は普通にその上を歩いていく。それが当時のナチスによってだけでなく、現在でも踏みつけられていると感じる人がいる。その結果、ドイツの幾つかの街では、埋め込んだ石が取り除かれたこともあったという。

「つまずきの石」ところでザールブリュッケンには、これとは別に「目に見えない慰霊碑」というのがある。これは1990年よりヨヘン・ゲルツ指導のもとザールラント造形芸術大学の学生によってなされたプロジェクトだった。まずドイツ全土にある、ナチスが政権を取る1933年より以前に存在しているユダヤ人墓地にある名前が集められた。集まった数は2146人分。学生は1990年7月より、かつてザールラントのゲシュタポ本部があったザールブリュッケン城へ続く道の敷石を密かに持ち帰り、その石に集めたユダヤ人の名前を彫っていった。そしてその名前の彫られた面を下にして再び元の場所に戻した(石を戻すまでは代わりの石が置かれていた)。

1991年8月より、州政府と市にも許可され、同時に援助を受け、作業が続けられた。1993年5月23日にはザールラント州首相やドイツ・ユダヤ人評議会代表などが出席して式典が行われ、"2146個の石 - 人種差別主義に対する慰霊碑"と公式に名付けられた。同時にザールブリュッケン城の前の広場は"目に見えない慰霊碑の広場"と名付けられた。それらの石は他の石と同じように置かれており何の目印もないので、誰の目にも触れるものではない。

「つまずきの石」にしても「目に見えない慰霊碑」でも、いずれも石畳の中に石を置くというアイデアは同じである。街中に石畳があるヨーロッパらしいものと言えるだろう。先にも書いたが、このような足で踏む場所の慰霊碑に反対している人たちもいるが、いずれにしても過去を風化させないためには、こういったものも一つのアイデアと言えるだろう。また反対する人との議論も一つの慰霊碑的なことかも知れない。ただこういったものは過去と現在、未来を意識したものでなければならない。歴史的な長い目で見たときに、これが「つまずきの石、障害物」にならないよう意識する必要がある。

"目に見えない慰霊碑の広場"

"目に見えない慰霊碑の広場"

"目に見えない慰霊碑の広場"

"目に見えない慰霊碑の広場"


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