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2009年4月3日 ザールブリュッケン都市100周年

ポスター

ドイツには現在81の大都市がある。この「大都市」という定義は1887年の国際統計会議に基づくもので、人口10万人以上の街を指す(2万人から10万人が中都市、5千人から2万人が小都市、5千人以下が地方小都市)。ザールラント州の州都ザールブリュッケンが大都市の仲間入りをしたのが1909年で、今年2009年で100周年になる。それに合わせて街では色々な催し物が企画されている。

ザールブリュッケンは都市リストによるとドイツで43番目に大きな都市で、ザールラント州唯一の大都市である。その数字などを見るとザールラント及びザールブリュッケンが如何に田舎であるか分かるが、かつてはドイツの戦略的にも非常に重要な街であった。この地は豊富な天然資源があり製鉄業が盛んだった。街もそれに合わせて大きくなり、例えば1930年代のザールブリュッケン駅はライプツィヒに次ぐドイツ帝国鉄道下で2番目に発着数の多い駅であったことから分かるように、交通の要所としてドイツにとっても重要な位置にあった。その後、ザールラントはドイツから切り離され、自治領として一つの国家となる。1957年になって住民投票の結果、ドイツ連邦共和国に加盟するに至るが、第二次世界大戦時に街が大きく被害を受けただけでなく、製鉄業の衰退などもあり、今では一地方都市となっている。

そのザールブリュッケンの都市の誕生は、1908年12月5日の条約に基づいて、1909年4月1日、旧ザールブリュッケン市(現在のアルト・ザールブリュッケン地区、「アルト」は旧の意)、旧ザンクト・ヨハン市、旧マルシュタット=ブルバッハ市が合併して出来た(人口約10万5千人、現在は約18万人)。街は同時に独自都市(政令指定都市のようなもの)になり、ライン川左岸では5番目(当時)に大きな都市となった。

1900年代初頭から、産業発展に伴い、例えば上下水道やガスの整備などが急務になったが、その際、それぞれの街が独自に行うより、一つの街として総合的に計画・実行した方がコストなど様々な面で利点があり、都市合併の話が出た。

ただ単純に都市合併と言ってもそこには様々な問題があった。合併そのものに反対する動きや、現在の日本で市町村合併の際に見られるように、街の名前や行政の所在地である。ザールブリュッケンの場合、市長同士がピストルで決闘をしたという話もあるが、正確なところは分かっていない。最終的に名前は、それまでの歴史を考慮してザールブリュッケンとなった。侯爵家のレジデンツ(居城)があっただけでなく、普仏戦争時に勝利した地で名前を知られている点など、また軍司令部が置かれていたのも理由の一つとして挙げられるが、ザンクト・ヨハン市にも司令部が置かれてあり、その説は当てはまらない。そしてその名前の代わりに市の中心は旧ザンクト・ヨハン市に置かれたと言うこと。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859-1941)の署名を持って、新しいザールブリュッケンが誕生したが、その4月1日、新聞などでもそれほど大きく取り扱われなかったという。というのは、その日は帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク(1815-1890)の誕生日で紙面はそちらを中心に取り上げていたということ。もしかするとそれは合併関連の話から逸らすためだったのだろうか。それとも、帝国に対する愛国心だったのだろうか。

現在、そういった過去の出来事を振り返ってみると、ザールブリュッケンという都市が誕生したことにもドラマが感じられる。今年、その100周年を記念して、美術館や教会、映画館などで様々な催し物がなされている。中でも市庁舎(旧ザンクト・ヨハン市の市庁舎)で行われている、この100年に関する展示は非常に興味深い(3月31日から4月30日まで)。

個人的に最も興味があったのは1930年のオペラに関して。ドイツ第三帝国の帰属を決めたザールラントの住民投票の結果に感謝して総統ヒトラーは市に劇場をプレゼントしたが(現在の州立劇場)、その当時の演目を見てみると、かなり幅広い演目が並んでいる。そしてプラカードなども、どことなく当時の芸術や文化を表現しており、見ていて飽きなかった。

そしてもう一つ興味深かったのは戦前の街並みの映像だ。現在のバーンホフ通りを走る路面電車から撮影したビデオ映像だが、現在からは想像もつかないような歴史的景観の中を走っている。係の人が横で説明してくれたが、その彼が言っていたのが、街並みの綺麗さと人の多さに関してだった。その他、展示室には実際に人が使っていたものなどもあり、それらの展示が単に100周年と数字のものだけでなく、人間味のある、生きたものの証のようにも感じられた。

ところでこの「都市100周年」のロゴは、アルテ・ブリュッケ橋をモチーフにしているのだろうか。アルテ・ブリュッケ橋はザンクト・ヨハン地区とアルト・ザールブリュッケン地区を結ぶ橋で、両地区を結ぶ橋は以前はこの橋だけだった。ザールブリュッケンという都市が誕生し、そして発展して行くには両方の街の協力が不可欠で、両者の「架け橋」という意味でも使われているのかも知れない。同時にそれは過去と現在、そして未来を結んでいる。今回の催しは、都市の100年を振り返っただけでなく、改めて意識させ、同時にそこに生きる人々の将来をも映し出しているかも知れない。


「ザールブリュッケン都市100周年」の看板

「ザールブリュッケン都市100周年」の看板


「ザールブリュッケン都市100周年」の看板

「ザールブリュッケン都市100周年」の看板


「ザールブリュッケン都市100周年」の横断幕

「ザールブリュッケン都市100周年」の横断幕

「ザールブリュッケン都市100周年」の看板

「ザールブリュッケン都市100周年」の看板


プログラムと歴史に関する本

プログラムと歴史に関する本


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