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2009年4月11日 近いフランス、遠いドイツ

国旗ザールブリュッケンで交通量が最も多いヴィルヘルム=ハインリヒ=橋やルイゼン橋にはドイツ国旗やザールラント州旗だけでなく、フランス国旗がはためいている。フランスとの国境に接するドイツ・ザールブリュッケンは、かつてフランス領だっただけでなく、第二次世界大戦後でも経済的にフランス・フラン圏に属するなどフランスの影響を多大に受けている。街の看板にもフランス語表記があり、例えばザールラント州立劇場でドイツ語のオペラが上演される際にはフランス語字幕が付き、また街のイベントでもドイツ語だけでなくフランス語のアナウンスがあったりする。ザールブリュッケン市内のお店でも、例えばデパートの売り場案内表示もドイツ語とフランス語であったり、店員と客がフランス語で会話しているのを何度も耳にしたことがある。そのようにザールブリュッケン市内を歩いてみれば、フランスというものを何かしら感じることが出来る。

ところで以前、何処かで読んだものには次のような記載があった。「フランスとの国境に位置するザールブリュッケンを中心とするザールラント州ではフランス語が通じ、逆にフランス・ロレーヌ地方(ロートリンゲン地方)では、ドイツに属していただけでなく、ドイツの影響を多大に受けているのでドイツ語が通じる」

ロレーヌ地方で大きな街といえばメスやナンシーの名前が挙げられる。ドイツ語ではそれぞれメッツ、ナンツィヒと呼ばれる街である。ザールブリュッケンからは電車でメスまで約1時間、ナンシーまでは約2時間と、それほど遠い距離ではない。

2009年4月上旬、快晴の日が続いていたので、ナンシーを訪れてみた。EUになって国境の審査などは無くなったが、フランス側の国境駅フォルバッハを過ぎたところでパスポート・コントロールがあった。警察のような制服を着た人たちが、乗客にパスポートの提示を求めている。チェックはそれだけだったが、ドイツ語は通じないようだった。その後、フランス国鉄の車掌が乗車券を切りに来たが、ベレー帽の制服などドイツと違っていて非常に洗練されている。また電車内も曲線を多用したデザインで、明らかにドイツと違っており、それだけでも既に外国にやってきたと思わせた。

ところでザールブリュッケンのレストランやカフェの入り口には料理のメニューがあり、お店によってはドイツ語だけでなく、フランス語の立て看板が置かれていたりする。今回、ナンシーの街の中心地で昼食を求めたとき、何軒かのお店を回ったがドイツ語の記載があるお店は見つけられなかった。お店に入ればドイツ語のメニューがあるかも知れないと思ったが、店員にもドイツ語が通じず、レストランやカフェ以外のお店でもドイツ語が通じなかった。結局、この日ドイツ語が通じたのは、声をかけてきた年配の女性だけだった。レストランのメニューを見ているとき、(おそらく)「旅行者ですか」とフランス語で声をかけられた。無意識にドイツ語で返すと、相手もドイツ語になった。「ツーリスト・インフォメーションはあそこですよ」「ドイツのどこから来られましたか」など話された。

またナンシー市内の観光名所的な場所でも表示はフランス語だけで、ドイツ語の表示はなかった。そういえばナンシーや、帰りの乗り換えで立ち寄ったメスの駅の売店でもドイツ語は全く通じなかった。ドイツ語が通じないのは店員にもよると思うので、これらの街で全くドイツ語が通じないとは思わないが、いずれにしてもドイツというものに対して距離があるように思われた。

最初に書いたようにドイツ・ザールブリュッケンではフランスに関するものがよく見られるので、フランスが近いという印象を受けるが、逆にかつてドイツ領でもあったナンシーやメスではドイツが感じられなかった。これらの違いはもしかすると国民性の違いもあるかも知れないが、20世紀以後のそれぞれの歴史も影響しているかも知れない。ロレーヌ地域は元々ドイツ系民族が多く住む地域であったが、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でドイツ帝国から切り離され、フランスに帰属することになった。その後、第二次世界大戦時には第三帝国軍に占領され、ドイツの一部のようになり、ドイツ語が公用語としても利用されるになるが、戦後はフランスに復帰し、公用語はフランス語になる。

それに対してザールブリュッケンを中心とするザールラントは第一次世界大戦後、国際連盟の管理下(実際はフランスの影響下)に置かれ、その後、住民投票を経てドイツ第三帝国に帰属したが、戦後は再度ドイツから切り離され、自治国となった(経済的にはフランス・フラン圏)。そして1957年になって住民投票の結果、ドイツ連邦共和国(当時の西ドイツ)に帰属することとなった。このように見てみると、ロレーヌ地域では反ドイツ的傾向が生まれた可能性もあり、ザールラントでは逆にドイツでありながらフランスの影響も簡単には切り離せない状況となっている。

自身がナンシー、メスに滞在していたのは僅か数時間だけなので、長期的に見たならば違った印象を得る可能性もあるが、その数時間で感じたのは、この地でドイツの面影を探すのは難しいということ。といっても、それを探す必要もないが。しかしそれを言い換えてみれば、それだけ歴史が動いていると言うことも知れない。今後、それぞれがどのように発展していくか、それもまた楽しみの一つであるが、ただ今回、ナンシーへの旅で感じたのは、フランス語が出来れば更に楽しめたかも知れないということ。この旅は自身のフランス語に対する意識を変えさせるものになるかも知れない。


「日曜日のショッピング」のお知らせ(独仏語)

「日曜日のショッピング」のお知らせ(独仏語)


メス駅

メス駅

ドイツ語とフランス語の看板

ドイツ語とフランス語の看板


ナンシー駅

ナンシー駅


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