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2008年7月12日 エクレアとティラミス

エクレアザールブリュッケン市内のパン屋やケーキ屋で時々、エクレアを購入する。思わず、ドイツでは珍しいと感じてしまう。その他にティラミスを欲するときもあるが、これはあることはあるが、見つからないことの方が多い(なのでデパートなどでマスカルポーネを買ってきて自分で作る)。

そういえば南ドイツ、バイエルンの州都ミュンヘンでは、同じようにパン屋を覗くとティラミスが売られていることが多く、逆にエクレアを見つけるのは難しい。このことを色々な人に話すと大抵同じ応えが返ってくる。

ミュンヘンはイタリアに近い都市なのでティラミスが売られており、対してザールブリュッケンはフランスに近いのでエクレアがよく売られているのだろうと。もちろんミュンヘンだけエクレアが売られておらず、ザールブリュッケンだけティラミスがない、ドイツの他の街には両方揃っている、そういった可能性もあるが、いずれにしても、ミュンヘンとイタリア、ザールブリュッケンとフランス、それぞれ近い地域の影響を受けているのは間違いないと思われる。

同じ州都であってもミュンヘン(面積310平方キロメートル、人口約132万人)、ザールブリュッケン(面積167平方キロメートル、人口約18万人)は色々な面で違っている。例えばミュンヘンでは先にも書いたようにイタリアに近いためか、イタリア料理のお店が多い。その他、ギリシャ料理やインド料理のお店も数多くある。対してザールブリュッケンでは、イタリア料理のお店も数少なく、またあってもそこではフランス料理も出していることがある。そしてギリシャやインド料理のお店の数は片手で十分に数えられる(因みに両方の街で多いのは中華系)。

食文化だけではない。例えばイタリアに近いミュンヘンはカトリック色が強く、16世紀にドイツで宗教改革が起こったとき、ミュンヘンを中心とするバイエルンはドイツにおける反宗教改革の中心地となった。国庫が破綻するほどの力を注ぎ込みルネサンスの教会を建て、そしてオルランド・ディ・ラッソなどルネサンス音楽が華開く。その後、バロック建築だけでなく、建築家アザム兄弟やツィンマーマン兄弟のもと、バイエルンはロココ芸術の時代を迎える。現在、ミュンヘンを訪れる外国人の割合を見てみれば、ヨーロッパ諸国の中ではイタリアが最も多く、全体の10分の一以上の割合を占める。次いでイギリス、スイス、オーストリアと続く。ミュンヘンがイタリア・スイス・オーストリアの玄関口になっていることもあり、その結びつきの強さが分かる。

対してザールブリュッケンは宗教改革の影響を受け、街はプロテスタントになった。しかし隣国フランスの援助があり、街にカトリックの教会が建てられ、カトリックの影響力も大きくなった。ルネサンスの建物はフランス・バロックに生まれ変わった。建築家フリートリヒ・ヨアヒム・シュテンゲルである。しかしザールブリュッケンでロココ芸術は華開くことはなかった。

看板ザールブリュッケンの歴史を見てみれば、その後、ザールブリュッケンを中心とするザールラントは豊富な資源を求める強国の影響を受けるようになる。プロイセンやバイエルン領になり、第一次世界大戦後は国際連盟の管理下に置かれることになる。しかし実際はフランスの影響力が強かった。

その後、ザールラントは住民投票でドイツ第三帝国に帰属し、第二次世界大戦後は自治国となる。ただフランスとの関税同盟が結ばれており、経済的にはフランス・フラン圏だった。そして1957年、住民投票を経てドイツ連邦共和国(当時の西ドイツ)に加入する。アウトバーン(高速道路)が整備され、ドイツの他の街との繋がりも強くなったが、それでもザールラントはフランスとの関係が強く残っている。

フランスの援助を受けて大学が設立されただけでなく、ザールブリュッケンではフランス語の利用率もドイツの他の街に比べて高い。ザールブリュッケンの公式サイトも独仏英の順に言語が並び、街の看板でもドイツ語にフランス語が並記されている。何よりオペラの字幕も時にはフランス語であったり、ザールラント州立劇場の年間プログラムもドイツ語と一部フランス語だけで英語がない。

ひとことで「ドイツ」と言っても、ミュンヘンとザールブリュッケンだけでもこれだけ違いがあることを意識すれば、北ドイツや別のドイツの街にも、その街の歴史に基づいた文化があるだろう。そのザールブリュッケン、今後はどのような方向に進んでいくのだろうか。個人的な印象を述べれば、ザールブリュッケンはドイツ国内への力よりも、さらに外に向かう力の方が強い印象を受ける。

例えばザールブリュッケンとドイツの他の都市、例えばミュンヘンなら電車で4時間以上かかり、ベルリンやハンブルクでは5時間以上の時間を移動に費やさなければならない。しかしザールブリュッケンからフランス・パリやルクセンブルクは電車で一時間台と、その距離は近く、電車に関してはさらなる高速化も計画されている。ザールブリュッケンとフランスの距離が今後更に近くなっていくかも知れない(言い換えれば、フランスとドイツそのものの距離が縮まったとも言える)。

ザールブリュッケンを中心とするザールラントはその周辺地域フランス・ロートリンゲン地方(仏、ロレーヌ)とルクセンブルク(ルクセンブルク市を中心としたルクセンブルク広域行政区)との連携を強めているように思われる。この地域はザール=ロア=ルクス Saar-Lor-Lux と一つの経済圏をなしており、国家の枠を超えて文化事業などが行われている。またこの経済圏にドイツのラインラント=プファルツ州やベルギーのドイツ語圏も加わって、一つの文化圏となっている。

そういえばミュンヘンに関しては外国人の訪問者数は国別に出ているものの、ザールブリュッケンではその総数しか記載されていなかった(約6万5千人)。しかし驚いたのが次の情報だった。ザールブリュッケンに住む外国人で最も多いのはイタリア人と言うこと。更に調べてみると、ザールブリュッケンにはイタリア領事館があった。それ以外には、フランス総領事館、オランダ領事館、オーストリア領事館があり、隣のフェルクリンゲンにはマダガスカル領事館とルクセンブルク領事館がある。

キッシュ・ロレーヌ中でもフランス総領事館はルートヴィヒ教会のあるルートヴィヒ広場側にある。ここにはザールラントを代表するバロック教会、ルートヴィヒ教会だけでなくザールラント州の首相府がある場所で、言ってみれば観光的だけでなく、政治的にも重要な場所。その場所にフランス総領事館があるということは、それだけフランスとの関係を重要視していることが分かる。

しかし自分がザールブリュッケンはフランス寄りを感じたのは、今だけかも知れない。長く住めばまた違った印象を感じることもあるだろう。またそれだけでなく状況・環境によっても別のものを得るかも知れない。例えばサッカーで1.FCザールブリュッケンが絶えずブンデスリーガ一部リーグで活躍しているなら、ドイツをより意識する可能性もある。いずれにしてもザールブリュッケンという街、この街にはこの街ならではのものが、自分が知らないだけでまだまだ存在しているに違いない。そういったことを意識しながら、ザールブリュッケンで良く目にする、フランス・ロートリンゲン地方のキッシュ・ロレーヌを頂いた。


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