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ザールラント州立劇場 Saarlaendisches Staatstheater

ザールラント州立劇場の切手ザールラント州立劇場はパウル・バウムガルテン(パウル・オットー・アウグスト・バウムガルテン)によってガウ劇場ザールプファルツとして、1937/38年建設された。ドイツ第三帝国は当時、ドイツを幾つかのガウという大官区に分けていた。ザールラントはザールプファルツ大官区だった(右写真は、当時発売された切手。上に「ガウ劇場ザールプファルツ」、下に「ドイツ帝国」という文字が見える。筆者所有の切手より)。

1935年、国際連盟の管理下にあったザールラントの帰属を廻って住民投票が行われ、その結果ザールラントはドイツに帰属することとなった。その決定に感謝の意を表して、総統ヒトラーは"総統からの贈り物"として劇場を建てた。20世紀初頭からザールブリュッケンに新たな劇場を建てる計画はあったが資金難から実現しなかったのを、ヒトラーが実現させた。因みにバウムガルテンはアルベルト・シュペーアやパウル・ルートヴィヒ・トローストたちと並んで、ヒトラーお気に入りの建築家の一人である。

この劇場建設のために幾つかの候補地が挙げられたがヒトラーの意志で現在の場所に決められ、それまでそこにあった家々は取り壊された。第三帝国下で建設された劇場はこの劇場とデッサウ市の劇場だけだが、ザールラント州立劇場は当時のヨーロッパで最先端の技術を持った劇場だった。

第三帝国下のザールラント州立劇場またザールラント州立劇場の建物はフランスに対して精神的な防波堤の役割も持ち、劇場の正面はパリの方向に向けて建てられた。1938年10月9日のこけら落としはリヒャルト・ヴァーグナーの「さまよえるオランダ人」。ところでこの直前の9月30日にはミュンヘンで、独伊英仏の首脳が出席してミュンヘン会談が行われ、チェコスロヴァキア(当時)のズデーテン地方をドイツに帰属させることが決められた。このザールラント州立劇場(ガウ劇場ザールプファルツ)のこけら落としは政治的に利用され、ヒトラーや宣伝省大臣ゲッベルス、親衛隊長官ヒムラーなど第三帝国幹部も出席した。

劇場内は赤と金色を使った豪華な作りで、客席中央には総統席というボックス席が設けられた。しかし1941年、空襲により一部が崩壊する。ヒトラーは直ぐに劇場再建に動き出したが翌年1942年の空襲で劇場は客席部分などが崩壊した。

そして劇場は戦後外観などが復元されたが、客席数は約300席少なく再建された。また総統席は復元されず、そこは技術室となった。1948年3月6日に劇場は再こけら落としを迎える。モーツァルト「魔笛」がその最初の作品に選ばれた。

現在、客席の天井フレスコ画やシャンデリアは劇場らしい豪華さを演出し、新古典主義的な舞台正面枠、オーケストラピットの横には、第三帝国様式の建築でよく見られる大理石壁が見られるが、劇場内は赤色が少なく質素な印象を受ける。"総統からの贈り物"としての印象を避けているのかも知れない。

ところでヘルマン・ヴェーデキントが劇場総支配人だった1960年代、彼は「芸術に国境はない」というモットーのもと、多くの外国人作品、特にフランスやグルジアの作品を取り上げ、上演した。その結果、劇場前の広場はグルジアの首都に因んで、トビリシ広場(ティフリス広場)と名付けられ、1975年、両市は姉妹都市提携を結んだ。また1956年以降の歴代音楽総監督は次の人たちが務めている。Philipp Wüst(任期1956-1964)、Siegfried Köhler(1964-1973)、Christoph Prick(1975-1977)、Matthias Kuntzsch(1977-1986)、Jiri Kout(1986-1988)、Matthias Kuntzsch(1988-1991)、Jun Märkl(1991-1994)、Laurent Wagner(1994-1998)、Olaf Henzold(1998-2001)、Leonid Grin(2001-2006)、Constantin Trinks(暫定2006-2009)、Toshiyuki kamioka(上岡敏之氏、2009-)

ザールラント州立劇場

ザールラント州立劇場

ザールラント州立劇場

ザールラント州立劇場

劇場入り口

劇場階段

劇場入り口

劇場階段

劇場廊下

劇場内

劇場廊下

劇場内

装飾

劇場内階段

装飾、第三帝国様式の面影がある

劇場内階段

賞状

劇場

国際的な「ベストプログラム」受賞の賞状

劇場

シャンデリア

座席

シャンデリア

座席、座り心地が良く、前に空調施設がある

トビリシ広場の看板と説明

トビリシ広場でのイヴェント

トビリシ広場の看板と説明

トビリシ広場でのイヴェント



かつての城壁と門跡 Ehemalige Stadttore und Stadtmauer

かつて街は城壁に囲まれており、街に出入りするための門が幾つかあった。それらは1321年に建設され、1810年に取り壊された。現在は壁の一部と門跡がある。

かつての城壁跡

かつての門跡

かつての城壁跡

かつての門跡

かつての門跡

かつての門跡

かつての門跡

かつての門跡

かつての門跡

 

かつての門跡

 



増水の記録 Hochwasserschild

1947年12月30日、フランスのヴォージュ(独、ヴォーゲーゼン)の雪解け水と豪雨が重なりザール川が氾濫した。そしてその水は市内まで流れ込み、水域は窓の高さまで達した。その記録が残されている。

増水の記録

増水の記録

増水の記録

増水の記録


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