Homeザールブリュッケンの街並みと風景 > ザール川右岸、ハルベルク城とミトラ教洞窟周辺

ハルベルク城 Das Schloss Halberg

ハルベルク城はもともと1709-1711年、伯爵ルートヴィヒ・クラフトの命によりフランス様式で建てられたが、1793年、フランス革命軍によって破壊された。1877年にはこの地を管理するプロイセン王国によって、この城および庭園は工場経営者として有名なシュトゥム家の手に渡り、1877/78年、当時非常に有名だったハノーファー出身の建築家エドウィン・オップラー(1831-1880)によってネオゴシック様式で再建された。現在、ハルベルク城はザールラント放送局の事務局として利用されている。

ハルベルク城へ続く道は1958-1977年、ザールラント放送局の責任者だった人物の名前を採って、フランツ=マイ=通りと命名された。そこを進んでいくと赤砂岩で作られた門がある。またこの周りにはかつての庭師の家などが現存しており、それらは現在、放送局の施設として利用されている。

そして赤砂岩で作られた周りの建物に対し、本館はフランス・ロートリンゲン地方の石灰岩で建設されている。シュトゥム家はハルベルク城周辺の庭園なども拡張させ、この城はこの近辺では非常に有名な城となった。この城のゲストとしてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も訪れている。

1939年、ここに(ドイツ)帝国放送局事務所が置かれた。その後、第二次世界大戦で建物は空襲の被害を受け、ザールラントを統治したフランス軍の命で簡素に復元された。その簡素で復元というのは、反ドイツ的なものとして捉えられた。同時にここにフランス軍の司令部が置かれることになった。ザールラントがドイツに復帰した後の1959年、ここはザールラント放送局に譲られた。

ハルベルク城

ハルベルク城

ハルベルク城

ハルベルク城

 

 

通り名の看板と説明

ハルベルク城入り口門

通り名の看板と説明

ハルベルク城入り口門

 

 

放送局施設

放送局施設

放送局施設

放送局施設

 

 



侯爵ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンの墓 Das Grab des Fuersten Heinrich

侯爵ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケン(1768-1793)は幼少期、ハルベルク城で生活していた。しかし1793年、ザールブリュッケン周辺がフランス軍に占領され始めたとき、一家は逃亡し、彼はザールブリュッケンを奪い返すために、この城をプロイセン軍に与えた。そして先代の侯爵ルートヴィヒが亡くなったとき、侯爵ハインリヒは領地を持たない侯爵となった。そこでプロイセン王は現在バイエルンのアンスバッハ近郊の城を彼に与えた。1797年4月27日、そこで彼は落馬して29歳の若さで亡くなった。そして彼のお墓はその城に置かれたが、1976年になって、彼の望みであったハルベルク城側に埋葬されることになった。

侯爵ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンの墓

侯爵ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンの墓

侯爵ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンの墓

侯爵ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンの墓

 

 

侯爵ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンの墓

 

侯爵ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンの墓

 

 

 



シュトゥム家の墓所 Friedhof der Familie Stumm

カール・フェルディナント・フォン・シュトゥム(1836-1901)は当時、ザールラントだけでなくドイツ全土にも影響を及ぼすほどの名士だった。工場経営者というだけでなくドイツ帝国議会議員として、経済や政治にも影響を与え、1890年代には皇帝ヴィルヘルム2世に助言を与えるほどの人物となった。ハルベルク山中腹にあるシュトゥム家の墓所には、彼と彼の妻イーダ・シャルロッテ・フォン・シュトゥム、そして彼らの息子カールと二人の娘イーダ夫妻とエリーザベト夫妻のお墓がある。

シュトゥム家の墓所

シュトゥム家の墓所

シュトゥム家の墓所

シュトゥム家の墓所

 

 

シュトゥム家の墓所

 

シュトゥム家の墓所

 

 

 



かつてのプロテスタント教会 Ehemalige evangelische Kirche

かつてのプロテスタント教会は1882年、フェルディナント・フォン・シュトゥムの命の元、フェルディナント・ショルバッハによってネオロマネスク様式で建設された。それまでブレバッハ地区のプロテスタント教徒は毎週の礼拝のために、別の街まで行かなければならなかった。しかし第一次世界大戦では、教会の鐘などが兵器のために没収された。この教会は1936年までシュトゥム家が管理していたが後に売られ、その後は教会として利用されることはなかった。

かつてのプロテスタント教会

かつてのプロテスタント教会

かつてのプロテスタント教会

かつてのプロテスタント教会

 

 



ミトラ教洞窟 Mithrasgrotte

ミトラ教洞窟は3、4世紀のローマ人のもので、ペルシャの太陽神ミトラ(ミスラ)を祀っているとされる。伝説によると6、7世紀、ここに二人のメス司教が住み、ここからキリスト教の布教活動を始めたとされ、それ故、ここはザールラントにおける最古のキリスト教的な場所とされている。15世紀には、ここはキリスト教の巡礼地とされるが、その後は埋もれてしまう。1772年、侯爵ルートヴィヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンによって再発見された。

ところでこのミトラ教洞窟の近くに碑文の彫られた石が置かれている。これは1810年5月23日に、ザール川に落ちて命を落とした18歳の青年に関する碑である。彼の遺体はここより数キロ離れた現在のコングレスハレ(会議ホール)の辺りで発見された。その碑が何故この場所に置かれているのか、誰が置いたかなどは謎になっているが、おそらくこのハルベルク山の直ぐ近くで川に落ちたと推測されている。

ミトラ教洞窟

ミトラ教洞窟

ミトラ教洞窟

ミトラ教洞窟

 

 

ミトラ教洞窟

ミトラ教洞窟近くの碑文

ミトラ教洞窟

ミトラ教洞窟近くの碑文

 

 



トーチカ Westwallbunker

ハルベルク山にはドイツ第三帝国期の1937-1940年に建設された19基のうち、18のトーチカ(ブンカー、鉄筋コンクリート製の防御陣地および防空壕)が現存している。第二次世界大戦後、破壊が試みられたが、この山の山頂、つまりハルベルク城にはフランス軍の司令部が置かれていたので、破壊されなかったとされる。現在、一部は有刺鉄線で囲まれている。

トーチカ

トーチカ

トーチカ

トーチカ 

 

 

トーチカ

トーチカ

トーチカ

トーチカ

 

 


▲ページの最初に戻る