Home > ザールブリュッケンの街並みと風景 > ザール川左岸、独仏国境周辺と収容所跡
中央墓地はフランスとの国境沿いに1917年造営された。もともとは第一次世界大戦の名誉墓地として建設された。第二次世界大戦後には、ペーター・パウル・ゼーベルガーによって拡張された。また1920年代、その近くにユダヤ人墓地が完成。ユダヤ人墓地の管理棟は1929年、ハンス・ヴェルスツカニスによって建てられた。
ところで第三帝国期、反ナチスの人々はドイツから亡命するためにも様々な書類が必要で、亡命は簡単ではなかった。この中央墓地はフランスとの国境沿いに作られ、壁そのものが国境となっているので、そこに穴を開けてそこから脱出した人がいた。
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中央墓地正面入り口 |
脱出に関する碑 |
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ユダヤ人墓地 |
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独仏国境 Goldene Bremm
ドイツとフランスの国境はゴールデネ・ブレムと呼ばれる場所にある。EUになって人の行き来が自由になり、国境の税関は廃止された。かつて税関には旗が揚がっていたと思われる。また幹線道路に並行して走る別の道では、単に両国の看板があるだけだった。
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独仏国境、かつての税関、ドイツ側から |
独仏国境、かつての税関、フランス側から |
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フランス国境の看板 |
別の道のドイツ国境 |
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別の道のフランス国境 |
さらに別の道の国境 |
シュピヘルン周辺 Spichern
ザールブリュッケンと接するフランス領シュピヘルンは1780/81年、普仏戦争において、最初に大きな戦いが起こった場所で、それ故、ここは普仏戦争の特別な場所とされる。このシュピヘルンの戦いでフランス側には4078人の死傷者が、ドイツ側には4817人の死傷者が出た。その犠牲者は"名誉の谷"に埋葬された。
そしてその戦争があった8月6日は特別な日とされ、普仏戦争後、その日にあわせて色々な慰霊碑などが除幕された。1872年にはニーダーライン歩兵連隊第39部隊の碑が出来た。円柱の碑でその上にはドイツの鷲の紋章があったが、第一次世界大戦か第二次世界大戦の最中に行方不明となった。またこの碑と並んでホーエンツォレルン歩兵連隊第40部隊の碑も除幕された。これらの二つは現在も柵で囲まれている。そしてその近くにこの地で亡くなったプロイセン軍将軍の記念碑も作られた(ザールブリュッケン市内にもザールブリュッケン城側にプロイセンから大きな絵画が贈られたのを始め、記念像なども設置された)。
これらの碑は全てドイツのために作られたが、その後ロートリンゲン地方がフランスに帰属した際、このシュピヘルンもフランス領となった。そこで1934年8月6日、普仏戦争で犠牲になったフランス人兵士のために高さ15メートルの十字架の形をした慰霊碑が除幕された。
またシュピヘルンは、第二次世界大戦でフランスに侵攻したドイツ軍の前線となった。そして1952年、ザールブリュッケン市によって、この地にある、普仏戦争のドイツ人兵士墓地の近くに第二次世界大戦(1940年)のドイツ人兵士墓地が造営された。
現在、シュピヘルン周辺は"ドイツ・フランス・文化自然公園シュピヘルン"として整備され、そこにはヨーロッパ石と名付けられた記念碑が、ヨーロッパ年の1993年、シュピヘルンとザールブリュッケンの両者によって設置された。それらの円形の記念碑の周りには"ヨーロッパの星"が置かれている。
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フランスによる慰霊碑 |
ヨーロッパ石 |
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第二次世界大戦のドイツ人兵士墓地 |
普仏戦争のドイツ人兵士墓地 |
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アメリカによる碑 |
プロイセン軍将軍の記念碑 |
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フランス語の書かれたお墓 |
フランス語の書かれたお墓 |
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ホーエンツォレルン歩兵連隊第40部隊の碑 |
ニーダーライン歩兵連隊第39部隊の碑 |
トーチカ Der Bunker
1939年10月、この地を占領したドイツ軍は幾つかのトーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地)や防空壕を設置した。1939年、ヒトラーがここを視察している。現在は、ヴォータンと呼ばれたトーチカを始め幾つかのトーチカが残っている。
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ヴォータン |
ヴォータン |
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トーチカ |
トーチカ内 |
戦車 Der Panzer
1995年アメリカ軍歩兵師団から、1945年2月17日にドイツ軍と戦った戦車がこの地に贈られた。M24軽戦車でチャーフィーと呼ばれるもの。現在、その横には馬がいて緊張感のないのどかな風景が拡がっている。
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戦車 |
戦車 |
ノイエ・ブレム Neue Bremm
収容所ノイエ・ブレムは、1940年に作られた戦争捕虜収容所を、1943年にゲシュタポ(ナチスの秘密警察)によって拡張されたことにより、その歴史が始まった。ここには、反ナチス者やドイツ占領地で反ナチ運動を行った者、スパイ活動を行った者など、ゲシュタポに囚われた人が収容された。それ以外にもユダヤ人が送り込まれた。
1943年2/3月に建設された男性収容所には絶えず200-400人収容され、1943年12月に完成した女性収容所には150-200人、時には400人が収容されていた。それぞれの収容所には二重の有刺鉄線が張り巡らされた。囚人はゲシュタポによって昼夜監視され、日中は敷地内にある防火水槽の周りを、両手を頭の後ろで組みウサギ跳びのような格好で歩かされ、疲れて休んだ者は水槽の中に落とされたが、自力で上がることは不可能で多くの者が命を落とした。
この収容所は1944/45年冬、連合軍によって解放された。それぞれの収容所(バラック)は、ドイツが降伏した1945年5月8日直後、取り壊された。
1947年、この地を管理していたフランス人の手によって、高さ30メートルの鉄骨のオベリスクが作られた。その高さはフランス・メスからも見えるようにと意識されたものだった。同年11月18日、この収容所とオベリスク(慰霊碑)がモニュメントとして除幕された。その日は1918年、第一次世界大戦後、フランスが講和条約を結んだ日だった。
そして敷地内の一部にホテルが建設された。それは"記憶のホテル"と題されたもので、賛否両論がわき起こった。また高さ約3メートル、長さ65メートルの壁にドイツ語とフランス語でこの収容所の解説がなされている。
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水槽 |
慰霊碑 |
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慰霊碑 |
説明 |
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説明 |
慰霊碑 |