Home > ザールブリュッケンの街並みと風景 > ザール川左岸、ザールブリュッケン城周辺
現在ザールブリュッケン城がある場所には、昔より砦があり、999年にはメス司教オットー3世がそれについて言及している。その後、その砦は何度も拡張されたが、16世紀後半、新たに城を建設するためにそれまでの砦はほぼ完全に破壊された。そして1602-1617年にはその砦があった場所に伯爵ルートヴィヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンのために、ハインリヒ・ケンプトナーによってルネサンス様式の宮殿が建てられた。しかし1677年街を襲った大火で城の一部も焼失した。
城はその後、修復されるが、侯爵ヴィルヘルム・ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケン(1718-1768)が、バロック様式のレジデンツ(居城)を実現させたいがために、ルネサンス様式の宮殿は取り壊され、1738-1748年、ザールラントを代表するバロック建築家フリードリヒ・ヨアヒム・シュテンゲル(1694-1787)にバロック様式で新たな城を建てさせた。それが現在のザールブリュッケン城のもとになっている。しかし1793年にはフランス革命軍の侵攻を受け北翼が焼失した。そして1810年以降、城はヨハン・アダム・クニッパーとフーゴ・ディームによって再建された。
1908年には、ここにザールラントの政府が置かれるが、第三帝国期にはゲシュタポ(秘密警察)がここを利用することとなった。
ザールブリュッケン城の建物は、第二次世界大戦の空襲で被害を受け、戦後修復された。そして1987/88年にはゴットフリート・ベーム(1920-)によって城中央が鉄筋でガラス張りに建て替えられた。ベームはドイツ人で唯一、プリツカー賞を獲得した人物である。この賞は建築家のノーベル賞とも言われ権威あるものとされる。この建設に対しては賛否両論が聞かれた。ところで現在、窓の一つにシュテンゲルのレリーフが取り付けられてある。
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ザールブリュッケン城 |
ザールブリュッケン城 |
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ザールブリュッケン城 |
ザールブリュッケン城 |
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ザールブリュッケン城 |
シュテンゲルのレリーフ |
目に見えない慰霊碑の広場 Platz des Unsichtbaren Mahnmals
1990年よりヨヘン・ゲルツ指導のもとザールラント造形芸術大学の学生によって、あるプロジェクトが始められた。まず最初にドイツ全土にある、1933年より以前に存在しているユダヤ人墓地にある名前を集めた。その数、2146人分。学生は1990年7月より、かつてザールラントのゲシュタポ本部があったザールブリュッケン城へ続く道の敷石を密かに持ち帰り、その石に集めたユダヤ人の名前を彫っていった。そしてその名前の彫られた面を下にして再び元の場所に戻した(石を戻すまでは代わりの石が置かれていた)。1991年8月より、州政府と市にも許可され、同時に援助を受け、作業が続けられた。それらの石は他の石と同じように置かれており何かの目印もない。
1993年5月23日、ザールラント州首相やドイツ・ユダヤ人評議会代表などが出席して、"2146個の石 - 人種差別主義に対する慰霊碑"と公式に名付けられた。そしてザールブリュッケン城の前の広場は"目に見えない慰霊碑の広場"と名付けられた。
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"目に見えない慰霊碑の広場" |
"目に見えない慰霊碑の広場" |
ザールブリュッケン城庭園 Schlossgarten
ザールブリュッケン城庭園は1697-1713年にヴェルサイユを模倣して造営されたが、その後、侯爵ヴィルヘルム・ハインリヒの時代に新たにバロック庭園として造営し直された。階段状になっている庭園には幾つかの彫像が見られる。また庭園にある大砲は1864年、プロイセンの軍事省から贈られたもの。
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ザールブリュッケン城庭園 |
ザールブリュッケン城庭園 |
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ザールブリュッケン城庭園 |
ザールブリュッケン城庭園 |
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ザールブリュッケン城庭園 |
ザールブリュッケン城庭園 |
城壁にあるテラス Schlossterrasse
城壁にあるテラスはザールブリュッケン市内が一望できる場所。そしてそこへ上がる階段の途中にドイツ第三帝国の犠牲者に捧げられる碑がある。また城壁に"クレープト"と呼ばれるガーゴイル(排水口)がある。これは、とあるパン屋の像で、彼は飢饉の時、貧しい人々に何もせず入り口の前から追い払ったという。それ故、彼は罰を受け、彼の口から水が流れるようになったという言い伝えがある。
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テラスへの階段 |
城壁にあるテラス |
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ドイツ第三帝国の犠牲者に捧げられる碑 |
ガーゴイル |
旧市庁舎と城広場周辺 Das Alte Rathaus und Schlossplatz
旧市庁舎は、1909年に3つの地域(アルト・ザールブリュッケン市、ザンクト・ヨハン市、マルシュタット=ブルバッハ市)が合併してザールブリュッケン市が誕生するまで、アルト・ザールブリュッケン市の市庁舎だった(アルト・ザールブリュッケンは合併するまでは、ザールブリュッケン市だったが、合併を機に「かつて」の意味を持つ単語が前に付きアルト・ザールブリュッケンと呼ばれるようになった)。
旧市庁舎は1498年に建てられた建物を、1748-1750年、シュテンゲルがザールブリュッケン城にあわせてバロック様式で建設した。切り妻の所にはMDCCL(1750)という建設年とアルト・ザールブリュッケンの獅子の紋章が見える。またバロック様式の時計塔のタマネギ型ドーム屋根の上には紋章の獅子をあしらったコンパスカードがある。現在、旧市庁舎の建物には市民大学が入っている。
ザールブリュッケン城前の広場もシュテンゲルによって整備された。侯爵ルートヴィヒは息子のハインリヒのために、シュテンゲルに宮殿を建てさせた。それが皇太子宮殿である。
ザールブリュッケン城付属教会はもともと15世紀に後期ゴシック様式で建設され、1743年、シュテンゲルによってタマネギ型のドーム屋根が取り付けられた。礼拝堂内には侯爵家ナッサウ=ザールブリュッケンの墓碑がある。現在はザールラント博物館の一部門となっている。
ところで1874年、アルト・ザールブリュッケン市はプロイセン王国首都ベルリンにある政府から一つの便りを得た。それによると、当時ベルリン芸術アカデミーの学長であり、画家として有名だったアントン・フォン・ヴェルナー(1843-1915)がザールブリュッケンのために描いた大きな絵をザールブリュッケンの何処かに飾りたいので、そのための場所を用意して欲しいというものだった。その絵は1870/71年の普仏戦争で戦場だったザールブリュッケン側での戦いを描いたものということ。そこでザールブリュッケンは城近くに新たに建物を建設し、そこに大きな広間を作って展示するとことにし、ベルリンもその応えに満足した。
そこでカール・ベンツェルによって新たな建物の建設が始められたが、その内装はプロイセン政府の手によることとなった。そして1880年、建物が完成し、巨大な絵数枚を含む何枚かの絵が飾られた。それらはザールブリュッケン側での戦い、プロイセン王ヴィルヘルム1世の肖像画、プロイセンの陸軍元帥モルトケ伯爵や宰相ビスマルクの肖像画、それに普仏戦争で活躍した6人のザールブリュッケン市民の肖像画が飾られた。それらは普仏戦争勝利10周年を記念してなされたものだった。当時、プロイセンにとってザールブリュッケン、ザールラントは重要な位置づけにあったのが分かる。しかし第二次世界大戦の空襲でこの建物も崩壊した。絵は保護され、戦後その多くは個人所有となっている。
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旧市庁舎 |
旧市庁舎 |
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旧市庁舎 |
旧市庁舎前 |
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旧市庁舎周辺 |
ザールブリュッケン城付属教会 |
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皇太子宮殿 |
旧市庁舎周辺 |
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ザールラント博物館の一部門 |
ザール歴史博物館 |
アルトノイガッセ周辺 Altneugasse
アルトノイガッセ(旧・新小径の意)はかつてはノイガッセ(新小径)として呼ばれていた。この通りには、18世紀当時、新しい様式であったバロック様式の家々が並んでいる。しかし城壁が拡大された際に「以前の」という意味を付けてアルトノイガッセと呼ばれるに至った。現在、城壁の一部が残っている。
またルイーゼの泉は1912年、アウグスト・クーンによって制作された。プロイセンの王女ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレリッツ(1776-1810)を記念したものである。プロイセンとフランスとの協議で、彼女はフランス皇帝ナポレオンに対する交渉で成果を収め、その結果ザールラントはドイツ側(プロイセン王国とバイエルン王国)に帰属することになった。フランス革命以後、ザールラントはフランスに占領されていた。
そしてそのルイーゼの泉が当時ルイゼン橋側にあったルイゼン公園に設置された。しかし戦後、アウトバーン建設などにより公園は整備され、泉は現在の場所に移設された。
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アルトノイガッセ |
アルトノイガッセ |
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ルイーゼの泉 |
アルトノイガッセ |
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アルトノイガッセ |
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ナンテザー広場 Nanteser Platz
ナンテザー広場(ナント広場)は1965年の、フランス・ナント市とザールブリュッケンの姉妹都市協定を記念して名付けられた。この広場(公園)には、かつて中世の家々が建っており、アルト・ザールブリュッケン地区の中心であったが、第二次世界大戦の空襲で被害を受け、戦後取り壊されて公園として整備された。そして1977年6月24日、両市長出席のもと、ここで式典が行われた。
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ナンテザー広場 |
ナンテザー広場 |