Homeザールブリュッケンの街並みと風景 > ザール川周辺、ビスマルク橋周辺

ビスマルク橋周辺 Bismarckbruecke

1870/71年の普仏戦争に勝利し、ドイツ統一を実現させた宰相ビスマルク(1815-1897)に因んで、ドイツ中の街で通りや広場の名前に彼の名前が付けられた。それはザールブリュッケンでも同じだった。1895年ザンクト・ヨハン市の議会はビスマルクの80歳の誕生日を記念して、彼の銅像を建てる決定をした。同時に彼をザールブリュッケン(ザンクト・ヨハン市)の名誉市民とした。そして銅像建設のために市民に寄付を呼びかけた。当初予想していたよりも費用が高くなったが、名家で裕福だったシュトゥム家やレヒリンク家が多大な援助をした。

そして1899年3月23日、ザールブリュッケン城の前の広場にビスマルク像が設置された。高さ3.5メートルの花崗岩の台座の上に、3.2メートルのビスマルクの銅像が置かれた(制作はアドルフ・ドンドルフ教授)。右手には憲法の書を、左手には軍刀を持っている。それは普仏戦争の講和条約が結ばれたヴェルサイユ宮殿でのビスマルクの姿であった。このビスマルク像は一方で友好的な外交の意味を持ち、他方で外国に対する武力と防衛を意味している。

ドイツ第三帝国期、この銅像はザールブリュッケン城とその周辺のバロック様式には相応しくないとして撤去された。しかしその後、第二次世界大戦中に行方不明となった。

そしてそのビスマルクの名前が付いた橋が1913-1915年、ザール川に架けられた。ここに橋が架けられるのは、大きく発展しているザンクト・ヨハン市とアルト・ザールブリュッケン市の願いだった。そして橋の周りは公園として整備された。しかしこの石橋は第二次世界大戦でドイツの敗北が決定的になった頃、1945年3月20日、ドイツ軍によって破壊された。そして戦後の1948年、ビスマルク橋は新たに鉄筋コンクリートで作り直されたが、その際、以前の石橋のように復元された。

またビスマルク公園として1910-1920年に造営された周辺の公園の中でも南側は、1962/63年のアウトバーン建設の際に取り壊された。しかし北側の方には、現在シュターデンという名前で残されている。またザール川に沿った道路にも彼の名前が付けられている。そこに1862年、ビスマルク学校という学校があった。後にそこはドイツ=フランス=ギムナジウムの校舎として利用されるようになるが、ギムナジウムが新たな校舎を造って移動した後は、ザールラント州立博物館として使われている。

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋

ビスマルク橋



ビスマルク橋周辺と慰霊碑 Gefallenendenkmal

ビスマルク橋の周辺は公園としてが整備されている。そこに、3つの戦争(普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦)で犠牲になった人々に対する慰霊碑が設置されている。

3つの戦争で犠牲になった人々に対する慰霊碑

3つの戦争で犠牲になった人々に対する慰霊碑

3つの戦争で犠牲になった人々に対する慰霊碑

3つの戦争で犠牲になった人々に対する慰霊碑

ビスマルク橋の周辺

 

ビスマルク橋の周辺

 


▲ページの最初に戻る