Homeザールブリュッケンの街並みと風景 > ザール川右岸、中央駅周辺

中央駅周辺 Am Hauptbahnhof

ザールブリュッケン中央駅は1852年11月16日に開業した。当時はまだ現在のザールブリュッケン市が誕生していなかったので、ザンクト・ヨハン=ザールブリュッケン駅としての開業だった。2本のホームの間に幅56メートル、奥行き13,5メートルの砂岩の駅舎が建てられた。その後、利用客の増加に伴って、1891/1893年、新たな駅が建設された。それは2本の塔を持ち、街のシンボル的存在となった。しかし、1908年には更に大きな駅の着工が計画され、1914年に工事が始められる予定であったが、同年に第一次世界大戦が勃発して中止となった。

その後も利用客は増加し、1932年には453本の列車が止まる大きな駅となった。当時、街は国際連盟管理下にあったが、ザールブリュッケン中央駅はライプツィヒに次ぐ、ドイツ帝国鉄道下で2番目に発着数の多い駅だった。ザールラントがドイツに帰属した後に、第三帝国下で新たな駅の建設が計画されたが、またしても戦争の開始により中止となった。

第二次世界大戦では駅の80パーセントが破壊され、戦後はアメリカ軍指揮のもと、現在の19番線ホームが臨時の駅として使われるようになった。ところで駅舎の2本の塔は戦後も残っていたが、1963年新たな駅が建設されるときに取り壊された。新しいザールブリュッケン中央駅は1967年9月に完成した。全長120メートル、高さ26メートルの建物である。

そして2007年、駅の建物も改装され、オレンジ色を基調としたものになった。同時にフランス・パリと南ドイツを結ぶ鉄道路線が新たに開通し、ザールブリュッケンとパリ間も1時間40分台で行き来できるようになった。また独仏国境の駅としてザールブリュッケンとフランス国内を結ぶ列車も停車している。

ところで第三帝国下で駅舎が新たに建設されるとき、駅横の管理事務所の建物は1938年に完成した。現在その入り口には先の二つの世界大戦で犠牲になった者たちに捧げる碑が設置されている。

ザールブリュッケン中央駅

ザールブリュッケン中央駅

ザールブリュッケン中央駅

ザールブリュッケン中央駅

「パリ東駅」行き

ザールブリュッケンとフランス国内を結ぶ列車「ter」

「パリ東駅」行き

ザールブリュッケンとフランス国内を結ぶ列車「ter」

ICE(都市間超特急)とRB(地方鉄道)

駅管理事務所

ICE(都市間超特急)とRB(地方鉄道)

駅管理事務所

駅管理事務所

二つの世界大戦の慰霊碑

駅管理事務所

二つの世界大戦の慰霊碑



中央駅前 Vor dem Hauptbahnhof

ザールブリュッケン中央駅前にはトラム(ザールバーン)とバスの停留所があるが、それら公共交通機関と人が上を通り、車は下を通るようになっている。

ザールブリュッケン中央駅前

ザールブリュッケン中央駅前

ザールブリュッケン中央駅前

ザールブリュッケン中央駅前



鉄道橋とトンネル Eisenbahnbruecke und Tunnel

2007年に駅が改修されたが、その際、北出口も作られた。これまで駅の北側に行くには、大通りトリーラー通りを回っていくか、その途中のリュッツェルバッハ通りのトンネルを通っていくしかなかった。ちなみにトリーラー通りの鉄道橋は1908年に架けられたもの。

トンネル入り口

トンネル入り口内側から

トンネル入り口

トンネル入り口内側から

もう一方のトンネル入り口

もう一方のトンネル入り口内側から

もう一方のトンネル入り口

もう一方のトンネル入り口内側から

鉄道橋

鉄道橋

鉄道橋

鉄道橋



プロジェクト"ザールブリュッケン21"  Projekt Saarbruecken 21

独仏の国境に位置するザールブリュッケンの駅をヨーロッパ・ステーションという名称の駅にするプロジェクト"ザールブリュッケン21"が2006年5月より始められた。上述の駅の改修工事、パリへの新路線などもそれに伴ったものの一つである。そして駅敷地内の再開発が現在行われており、2009年に終了する予定となっている。

プロジェクト"ザールブリュッケン21"

プロジェクト"ザールブリュッケン21"

プロジェクト"ザールブリュッケン21"

プロジェクト"ザールブリュッケン21"

プロジェクト"ザールブリュッケン21"

プロジェクト"ザールブリュッケン21"

プロジェクト"ザールブリュッケン21"

プロジェクト"ザールブリュッケン21"



ホテル・テルミヌス Hotel Terminus

ホテル・テルミヌスはライヒス通りに1899年、パウル・ヴィーゼルトによって建てられた。ライヒス通りは中央駅の正面にあるが、ライヒス通りとは「帝国通り」の意で、この通りを通って中央駅で鉄道に乗れば帝国(の他の街)に行くことが出来る、というものに由来している。現在はホテルとして利用されていない。

ホテル・テルミヌス

ホテル・テルミヌス

ホテル・テルミヌス

ホテル・テルミヌス

ホテル・テルミヌス

ホテル・テルミヌス

ホテル・テルミヌス

ホテル・テルミヌス



炭坑管理局と鉱山学校 Die Bergwerkdirektion und -schule

炭坑管理局の建物は1880年マルティン・フィリップ・グロピウスとハイノ・シュミーデンによって、プロイセン王立炭坑局として建設された。通りに接してL字型に作られているが、その角度は65度となっている。外観にはフィレンツェ・ルネサンス様式の装飾が見られる。鉱山官、上級鉱山部隊長、商業顧問官などの4人の肖像メダル以外に、メンゲ兄弟による彫像(石炭採炭夫、炭坑管理局局長、主席係長、岩石採炭夫)、管理下にある29の炭坑名の入ったプレートが見られる。

ところでこの建物は砂岩で建てられているが、ザールブリュッケン(アルト・ザールブリュッケン市、ザンクト・ヨハン市)では、それまでバロック様式を中心に建設されていたので、砂岩による建設は、この地方に新しい時代が訪れたことを意味している。

炭坑管理局はこの建物が完成するまで、ザールブリュッケン城側の皇太子宮殿の中に部屋が割り当てられていた。しかし19世紀後半、ザール地方の石炭産業の急速に成長したのに伴い、新たな管理局の建設が急務になり、そのための建物が建てられた。その後、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって、この建物はフランスの管理下に置かれることになるが、1935年にザールラントがドイツに帰属してからは第三帝国が管理するようになった。建物は空襲の被害に遭ったが戦後修復された。炭坑管理局の建物は2009年秋にショッピングセンターに生まれ変わる予定。

また鉱山学校も炭坑管理局とともに皇太子宮殿の中にあったが、新しい炭坑管理局の側に新たな建物が建設された(1904-1906年)。鉱山学校はもともと、1807年、フランス皇帝ナポレオンによってフランスに設立されたが、1816年、プロイセンはそれをザールブリュッケンに移した。第二次世界大戦の空襲で被害を受け、戦後修復拡張されたのと同時に、この学校は鉱山技師学校となった。1982年より、この建物は地質学博物館として利用されるようになった。

炭坑管理局

炭坑管理局

炭坑管理局

炭坑管理局

炭坑管理局

炭坑管理局

炭坑管理局

炭坑管理局

鉱山学校

鉱山学校

鉱山学校

鉱山学校


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