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ナウヴィーザー地区周辺 Nauwieser Viertel

ナウヴィーザー地区はザールブリュッケンの文化の中心とも言われる。小さな劇場や様々なお店、カフェ、クナイペ(飲み屋のようなもの)が集まっている。中でも"ナウヴィーザー19(番地)"では幾つもの文化的な催しがなされ、様々な現代芸術が表現されている。

ナウヴィーザー地区

"ナウヴィーザー19(番地)"

ナウヴィーザー地区

"ナウヴィーザー19(番地)"



ナウヴィーザー広場とナウヴィーザー通り周辺 Nauwieserplatz und -strasse

ナウヴィーザー地区は、別名「中国人地区Chinesenviertel」とも呼ばれている。しかしその由来は未だ分かっていない。おそらくかつてこの地区に中国の大砲が置かれていたことに由来するとされている。しかしその大砲も第二次世界大戦中に行方不明となった。空襲を受けたか、それとも金属不足のため、それを溶かして兵器など別の用途に使われたか、それも謎となっている。

ナウヴィーザー広場とナウヴィーザー通りの建物は、1860年代から1911年にかけて建てられた。建築家はアドルフ・ヘンネ、カール・ブルッガー、フィリップ・ブルゲマイスター、ヘルマン・モジヒ、クリスティアン・シュヴェクラー、カール・ブルゲマイスター、ヨハンネス・ツァイガー、アルベルト・ピッツ、J.H.ベーメ、ルートヴィヒ・ラウヴィツ、アルヴィン・ツィーメなど。

またナウヴィーザー通りには東経7度線が走っており、それに関する碑が取り付けられ、地面にも長さ4メートルの線が引かれている。

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区(1897年 アルベルト・ピッツ建築)

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

ナウヴィーザー地区

東経7度線

東経7度線の看板

東経7度線

東経7度線の看板



ツェツィーリエ通りとヨハンニス通り周辺 Cecilien Str. und Johannisstrasse

ツェツィーリエ通りの名前の由来はプロイセン皇女ツェツィーリエに由来している。19世紀、この地はプロイセン領だった。この通りの建物は1892-1904年の間に建てられたものが多く、また建物の高さも統一されていることから、計画的に建設されたのが分かる。建築家はカール・ブルッガー、クルト・ヴィッツェル、アルヴィン・ハインカー、ゲオルク・ピッツ、ヨーゼフ・シュトゥルマー(父と子それぞれ)、クリスティアン・ブルゲマイスター(1世)、ハインリヒ・ギュート、ヴィルヘルム・ヘクトアーなど。この通りには以前、トラムが走っており、戦後もトラムの路線が計画されたが、住民の反対がありそれは断念された。またこの通りの道幅は建物が建設された当時と変わっておらず、建設当時の面影を残している。

またヨハンニス通りは空襲の被害が大きく、保存状態の良い建物が少ない。クリスティアン・ブルゲマイスター(2世)、フリッツ・ハッヘなどによって1900年頃から1920年にかけて建てられたものが現存している。

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り(1904年 クリスティアン・I・ブルゲマイスター建築)

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り(1904年 クリスティアン・I・ブルゲマイスター建築)

ツェツィーリエ通り

ツェツィーリエ通り

ヨハンニス通り

ツェツィーリエ通り

ヨハンニス通り



ナッサウアー通り Nassauerstrasse

ナッサウアー通りの「ナッサウ」とはこの地を統治していた侯爵家ナッサウ=ザールブリュッケンに由来している。ナッサウアー通りの建物は1876-1904年にかけて、建築家グスタフ・シュモル、ハインリヒ・ギュート、カール・ブルッガーなどによって建てられたものが現存している。様々な装飾がなされた、それらの建物だけを見ても、この通りやこの地区がその時代に如何に発展していたか分かる。

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り

ナッサウアー通り



ラントヴェア広場 Landwehrplatz

ラントヴェア(国防軍の意)広場の辺りは、かつて家畜市場があった。1896年、ヴィルヘルム・フランツよって建てられた建物に軍管区司令部が置かれた。広場の名前はそこに由来している。その建物の一階には消防署が入った。現在はそれらの目的で使われることはなく、ザールラント州立劇場の劇場の一つ、アルテ・フォイアーヴァッヘAlte Feuerwache(旧消防署の意) として、主に演劇などで使われている。

また1902-1904年、ヴィルヘルム・フランツよって建設された実科高等学校は現在、オットー・ハーン・ギムナジウムの校舎として利用されている。その外観の装飾から、建設当時、その学校が如何に重要だったかが分かる。

アルテ・フォイアーヴァッヘ

アルテ・フォイアーヴァッヘ

アルテ・フォイアーヴァッヘ(1896年 ヴィルヘルム・フランツ建築)

アルテ・フォイアーヴァッヘ(1896年 ヴィルヘルム・フランツ建築)

アルテ・フォイアーヴァッヘ

オットー・ハーン・ギムナジウム

ラントヴェア広場周辺(1895年 フーゴ・トルミン建築)

オットー・ハーン・ギムナジウム(1902-1904年 ヴィルヘルム・フランツ建築)

ラントヴェア広場周辺

ラントヴェア広場周辺

ラントヴェア広場周辺(1903年 ヴィルヘルム・ノル建築、1895年 H.シュミット建築)

ラントヴェア広場周辺(1902年 ヴィルヘルム・ノル建築)

ラントヴェア広場周辺

ラントヴェア広場周辺

ラントヴェア広場周辺(1902年 ヴィルヘルム・ノル建築)

ラントヴェア広場周辺(1895年 H.シュミット建築)

ラントヴェア広場周辺

ラントヴェア広場周辺

ラントヴェア広場周辺(1903年 ヴィルヘルム・ノル建築)

ラントヴェア広場周辺(1895年 H.シュミット建築)


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