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ドイツ騎士団は12世紀の終わり、アッコ(パレスチナ)への十字軍遠征の際に誕生した。アルト・ザールブリュッケンを統治していた伯爵ジモン3世・フォン・ザールブリュッケンは十字軍に遠征し、現在、ドイツ騎士団礼拝堂が建てられている地域をドイツ騎士団に与えた(1227年)。そしてドイツ騎士団はこの地に礼拝堂を建設したが、正確な年代は分かっておらず、1248年より以前とされている。その後、三十年戦争(1618-1648)でドイツ騎士団はザールブリュッケンから姿を消した。そして1836年以降、この地はザールブリュッケンの孤児や子供たちの施設となり、それは現在も受け継がれている。またこの礼拝堂はザールブリュッケンにおける最も古い建物の一つとされている。
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ドイツ騎士団礼拝堂 |
ドイツ騎士団礼拝堂 |
ユダヤ人墓地と(キリスト教徒のための)旧墓地 Israelitischer Friedhof und Alter Friedhof
ユダヤ人墓地は1841年に造営され、アルト・ザールブリュッケン地区旧墓地は1907-1909年に造営された。
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ユダヤ人墓地 |
ユダヤ人墓地 |
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アルト・ザールブリュッケン地区旧墓地入り口 |
アルト・ザールブリュッケン地区旧墓地、戦没兵士墓地 |
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アルト・ザールブリュッケン地区旧墓地 |
アルト・ザールブリュッケン地区旧墓地 |
アルト・ザールブリュッケン地区の街並み Alt-Saarbruecken
20世紀初頭、プフェーラー姉妹は貧しい人々や体が不自由で働けない者たちのために住居を提供した。どの宗教の者でも家賃無しで住むことが出来た。1912年までにプフェーラー通りやブルーホシュナイダースデル(通り)に合計41軒の家と92の住居が建設された。現在は24軒の家と53の住居が残っている。現在それらは一般人の手に渡り、施設としては利用されていない。
1906年ヴィクトア・ヘントラーによってプフェーラー通りやブルーホシュナイダースデル(通り)に幾つかの家が建てられた。この辺りは坂道になっているところが多く、建物もそれを意識して建てられている。
モルトケ通りには1894/95年、アルヴィン・ハインカーとクルトヴィッツシェルによって建てられた建物がある。現在、その場所はアルト・ザールブリュッケン地区の端に当たるが、その時代に既にここまで街が発展していたのが分かる。またそのモルトケ通りに建つ聖マウリティウス教会(カトリック)は1955/56年、アルベルト・ディーツとベルンハルト・グロテによって建てられた。
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アルト・ザールブリュッケン地区の街並み(1897年頃建設) |
アルト・ザールブリュッケン地区の街並み(1897年頃建設) |
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アルト・ザールブリュッケン地区の街並み(1906年 ヴィクトア・ヘントラー建築) |
アルト・ザールブリュッケン地区の街並み |
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アルト・ザールブリュッケン地区の街並み(1906年 ヴィクトア・ヘントラー建築) |
アルト・ザールブリュッケン地区の街並み |
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モルトケ通りの建物(1894/95年 アルヴィン・ハインカーとクルトヴィッツシェル建築) |
聖マウリティウス教会(1955/56年 アルベルト・ディーツとベルンハルト・グロテ建築) |
アルト・ザールブリュッケン地区の街並み Alt-Saarbruecken
アルト・ザールブリュッケン地区にはザールラントを代表するバロック建築家フリードリヒ・ヨアヒム・シュテンゲルのお墓がこの辺りにあったことを示す碑がある。その裏は山になっており、近くには切り出された岩肌が見える。またガストハウス・ツム・アードラーという飲食店は、1750年頃、フリードリヒ・ヨアヒム・シュテンゲルによって建てられた。当時のまま現存するアルト・ザールブリュッケン地区最古のガストハウス(飲食店)とされている。その側にはかつての市民医療所が建つ。これは1868-1871年、フーゴ・ディームによって建てられた。1906年より学校として利用されてきたが、2008年より市の古文書館になることが決まっている。
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ズッペン小径の碑 |
噴水のようなモニュメント |
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シュテンゲルの碑 |
岩肌 |
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ガストハウス・ツム・アードラー |
学校 |
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プロテスタント・ルター派教会(1902年 アウグスト・ラーフェルト建築) |
プロテスタント・ルター派教会(1902年 アウグスト・ラーフェルト建築) |