Home > ザールブリュッケンよりお出かけ > ドイツ・ザールルイ
人口、約38,000人でザールラント州では5番目に大きな街。こぢんまりとした小さな街だが、ザールラント州の隠れ州都という人も多い。自動車製造業や製鉄業が盛んというだけでなく、フランスから約20分、ルクセンブルクから約40分と距離が近く、交通の要所になっている。またザール河畔にある工業港は内陸港としてドイツ第8位の規模がある。現在は政治家オスカー・ラフォンテーヌ(1943-、現在は左翼党党首、元ザールラント州首相、ドイツ社会民主党SPD元党首、元連邦財務相など)の出身地として知られている。
ザールルイは電車(ドイツ鉄道)でザールブリュッケン中央駅より14分-20分の距離にある。ザールルイという街の名前の由来は、フランス王ルイ14世(1638-1715)にある。彼がこの地に防御施設を建設させた(1680)。その後の街の歴史はザールラント州州都ザールブリュッケンと同じで、フランスとドイツの間を行き来する。フランス革命時から19世紀初頭はサール=リーブルと名前が変更され、またドイツ第三帝国時代にはザールラウテルンとなったが、1945年にはザールルイという名に戻された。
その街の名前からも分かるようにフランスに対する意識も強く、市内中心部にはフランス通りと名付けられた歩行者天国があり、また市の紋章にもフランス語が書かれている。そしてそのフランス的なザールルイで最も有名な人物の一人にミシェル・ネイ(1769-1815)が挙げられる。ネイはナポレオン時代のフランス軍元帥で「勇者の中の勇者」として知られる。街には彼の像が作られている。それ以外に第一次世界大戦で活躍したドイツの軍人パウル・フォン・レットウ=フォルベック(1870-1964)も当地出身である。
ザールルイ中央駅 |
ザールルイ中央駅 |
クライナー・マルクト(広場) |
フランス通り |
石畳の路地(旧市街地) |
石畳の路地(旧市街地) |
石畳の路地(旧市街地) |
石畳の路地(旧市街地) |
グローサー・マルクト(広場)、右は「司令部」と呼ばれる建物。プロイセン王国時に司令部だった。1680-1683年建設。 |
郡役場(1910/1911年建設) |
プロテスタント教会(1906年建設) |
戦没者慰霊碑 |
ルートヴィヒ教会(1685年建設) |
ルートヴィヒ教会礼拝堂(1970年ゴットフリート・ベームによって改築) |
フランス軍第6兵舎(1866-1869年建設、全長135メートル、現市立博物館、図書館、古文書館など) |
第6兵舎にある大砲 |
ドイツ軍将軍パウル・フォン・レットウ=フォルベックの生家にある碑、彼はこの街の名誉市民 |
ドイツ軍将軍パウル・フォン・レットウ=フォルベックの生家 |
フランス軍元帥ミシェル・ネイの生家、現在はレストラン |
フランス軍元帥ミシェル・ネイの生家 |
フランス軍元帥ミシェル・ネイの生家 |
第二次世界大戦戦没者慰霊碑 |
ザールルイは1680年、フランス王ルイ14世の命を受けたフランス人技師ヴォーバンによってフランスの要塞都市として建設された。街中にある案内看板には、要塞都市として築かれた建設当時の様子が描かれている。現在の地図には当時、六角形だった都市の面影が見られる。フランスによって築かれた城塞の一部は、1887年以降、プロイセンによって破壊されたり、また埋められた。
案内板にある要塞都市、建設当時の様子 |
堰堤橋、要塞堀の水位を調整している(1682-1684年建設) |
空堀 |
要塞跡 |
堀周辺は遊歩道になっている |
要塞跡 |
フランス軍元帥ミシェル・ネイ像 |
要塞跡 |
フランス軍兵士像 |
要塞跡 |
砲郭、1824-1829年プロイセンによって建設 |
砲郭内側、現在は幾つかのレストラン |
ドイツ門にある大砲 |
ドイツ門にある王冠 |
第一次世界大戦慰霊碑 |
ザールルイの紋章、1683年より使用されている |